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2007年1月22日 (月)

討論集会のディベート

 昨日,中執より27日の討論集会の内容をFAXで送ってもらいましたが,ディベートというのは,やはり問題だと思います。昨日の城本中執宛のメールは,ディベートの一般的な問題点だけを指摘しましたが,今回の討論集会の内容に即して,考えてみました。

 「均等待遇の課題に取り組む,取り組まない」…取り組んだ方がいいのに決まっています。問題は,各職場の状況に応じてどのように取り組んだらよいかという点です。各職場が,どう苦心しているか,経験や問題点をだしあった方がよいと思います。

 「ホワイトカラー・エグゼンプションの導入に賛成か,反対か」…反対に決まっています。ディベートの結果,賛成のチームが勝ちになったら,どうなるんでしょうか。また,賛成のチームになったら,自分の思っていることでないことを,言わないといけなくなります。これは,悪い冗談でしょう。かりに,百歩譲って参加するにしても,事前に(1週間くらいは)賛成の理屈を調査しておかないと,難しいと思います。10分前に,突然,「はいあなたは,ホワイトカラー・エグゼンプション賛成チームですから」と言われたって,とうてい,賛成の議論は無理です。

 「要求実現のために組織の拡大,強化は,必要か,不必要か」…可能なら,拡大して強化した方がいいのに決まっています。それが出来ないので,皆,苦労しているわけです。よその職場の人が,どう苦労しているのか,それを聞きたいのに,必要か,不必要か,いまさら議論しても意味がないと思います。

 組織の強化ばかり前面に出てしまうと,運動が組織に押しつぶされて,運動が形骸化していくといった問題こそ,僕にとっては,とくに扱ってほしい,討論したい内容です。これからの出版労連,労働組合に必要なことは,組織の強化ではなくて,運動に参加する組合員の満足度の問題だと思います。組合員の満足度が向上するような運動を考えないといけないと思います。社会全体で労働組合が少数化するこれからの情勢では,少数組合でも力が発揮できるような,組合員が確信を持てるような,そういうコミュニケーションや,コミュニティをつくっていか
なければならないと思っています。

 「人と議論を切り離しましょう」…とんでもないと思います。たとえば「なるほど桝山くんはそう考えているのか」「そういった問題で苦心しているのか」といったことが分かるからこそ,討論は意味があると思います。相手のことを理解せずに(理解する必要性がなく),自分の意見を主張するのではない,議論だけを聞いて,何の意味があるでしょうか。その人の本意でないことなど,聞きたくありません。

 労働組合運動は,自主的に参加するものです。言いたいことは言って,言いたくないときは黙っているというので,当然です。言いたいことを言わせず,言いたくないことを言わせるのは,「させる方」は,ゲームとして見ていておもしろいかもしれませんが,「させられる方」は,ひじょうに不愉快です。

 12月の討論集会のとき,僕の分科会で,桝山くんが「あとちょっとだけ。10秒だけ」と言って発言したかったときに,司会の中執に切り捨てられてしまった内容は,今回も彼の推進する130分のディベートに中に消えてしまいそうです。京都書房労組の言うことはいつも同じで退屈だとして切り捨てる姿勢が,露骨すぎると思いました。しかし,皆,職場ではいろいろな問題をかかえて,悩んでいます。そういうことを,ていねいに一つずつ,取り上げていかないといけないと思います。僕の分科会においては,発言に時間を区切るやり方も,行き過ぎた面があったと思います。ディベートなら,時間管理がやりやすいのかもしれません。

 労働組合の討論集会を,いったい,どうしてディベートなどという,疑問の多い討議形式にしないといけないのか,導入の動機と言うところは,まったく理解できておりません。関西中執レジュメの「参考,ディベートの心得」において,「ディベートとは」として,4項目の説明書きがありましたが,その4項目がすべて,まず,文の最初に,「ディベートとは,……ではありません。」という否定形で書き始めています。そうしなければならない,どうしようもない「素性の悪さ」があるというのが,僕の解釈です。

 運営レジュメで,あれだけ詳しく決めてしまったものを,今さら変えることはできないでしょうね。僕は,本部提起の方針をうけて,各職場でどう取り組むのか,取り組めないのか,それは何故なのか,どこに問題があるのか,そういうことを大切にする形の方が良いと思います。

 「議論させる」ような参加強要型のやり方には,僕は参加しません。嫌いなんですね。よって今回はパスです。次回以降ももちろんディベートは,すべてパスです。参加したくありませんし,「自分の意見を主張するのではない」そんな議論は聞きたくもないからです。

参考までに。

「アジア太平洋戦争が侵略戦争であった」という「歴史的事実」を,「大東亜戦争は自衛戦争であった」という論題でディベートさせることによって考え直させようとする,東京大学教育学部の藤岡信勝教授らが実践してきた歴史ディベート活動。

大学時代に「ディベートで議論の力を身につけた」旧オウム真理教の上祐氏,「議論に勝つ」姿と、明らかな詭弁。「ああ言えば上祐」。

『 迷走する<ディベート授業>  開かれた社会認識を教室に 』
斉藤規・今野日出晴/編著 A5判並製 定価(1200円+税)
同時代社。

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見せ物のディベート

 ディベート(競技的議論)は見せ物として相手をやっつけ,ディスカス(討論)は実質的に討議することで,そこが違うと言われています。

(1)
議論の目的が命題の検証ではなく,議論に勝つことである(たとえ,自分の意見が間違っていて相手が正しいと思えた場合でも) 相手からの指摘が的を射ていたとしても,それに納得して自分の意見や立場を変えることが認めらない。
(2)
討論の基本である自己修正の態度をことごとく退けられる。
(3)
自分の間違いが発覚しても平気で嘘を突き通すことを強要される。
(4)
どんなに相手の意見が核心を突いていても反論し続けなければならないので,論点をそらしたり揚げ足取りの話術に終始し勝ちになる 。
(5)
肯定側と否定側が,互いの価値観の折り合いをつけられる部分を模索
する余地(例えば,双方が歩み寄れる譲歩点を見出だすこと)がない。
(6)
自分たちに不利な情報は矮小化し,有利な情報は誇張して宣伝するような態度を身につけてしまう。
(7)
物事には肯定か否定かのどちらかの立場しかないかのような考え方を身につけてしまう。
(8)
どんなテーマでも,弁舌のうまさ一つで肯定することも否定することも自由にできてしまうかのような印象を与えてしまう。
(9)
本人の意志を尊重せずに肯定側や否定側を強制的に演じさせることは 人格の軽視であり,「思想の商品化」につながる。どうして自分の主張でないことを言わなければいけないのだろう。
(10)
とにかく自分の意見が,相手の意見より正しい(強い)と認めさせるために非難,攻撃もいとわない態度をよしとする。
(11)
アメリカのディベートは,詭弁論法への熟達や,その場で言い負かせば良いのだというような実利性を重視し,「論理性」と反対のモメントへと向かう傾向がある。このような詭弁的なディベートの興隆は,訴訟社会としての米国というような,社会学的に異常な事態と表裏の関係を成している。裁判官の前で,役者の弁護士が熱弁をふるって,クライアントの主張を擁護し,相手を徹底的にやっつける技能=ディベート。

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