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2009年12月29日 (火)

『1968』とその前後の自分のこと

1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景』
1968〈下〉叛乱の終焉とその遺産』
2009-07 新曜社 小熊 英二 著
(以下,ユニオンSNS「なかまネット」の「徒然帳」などへの書きこみに加筆訂正)

■1■本を手にするまで
●2009年09月25日の「徒然帳」より
図書館(京都市立)に『1968』という本のリクエストを出したが,音沙汰がないので,別の図書館でちょっと聞いてみた。

「本の購入リクエストを出したら,必ず買ってもらえるんですか。」
「予算がありますので,そうはなりません。」
「購入が決まったらメールで連絡してくれるんですよね。」
「登録してあれば,メールをさし上げます。」
「購入が決まらなかったら,どうなるんですか。」
「そのまま,何も連絡はいたしておりません。」
「では,購入されるかどうかは,いつごろ決まるんでしょうか。」
「1か月くらいか,遅い場合は,3~4か月かかります。」
「予算ということですが,全市的な図書予算の枠内ということですか。」
「いいえ,各館ごとの予算です。」
「では,大きい図書館の方が,購入してもらえる可能性が高いのですか。」
「そうです。やはり,“うちなんか”よりも京都市中央図書館がいちばんです。」

僕がリクエストを出した図書館は,「うちなんか」という醍醐中央図書館よりも,さらにもっとぐっと規模の小さい醍醐図書館なんですけど。家からごく近いという理由だけで,そこで申し込んだのですが (T_T) 図書館もまるでお役所だな。

●2009年10月24日の「徒然帳」より
『1968』は8か月待ち。
(10月20日に定年退職で失業者になったので,リクエストした本が気がかりになって)先日,京都市中央図書館に出かけたときに,リクエストしている『1968』について,検索機で調べてみた。その結果,中央図書館と洛西図書館に各1冊ずつ入っていることが分かった。ということで,おそらく僕のリクエストは没になった可能性が高そうだ。

で,借用の予約をしようと思ったが,予約数が34もあった。34人が待っているわけで,1人で2週間,本は2冊あるから,今予約すると,順番が回ってくるのは,34週間後 !!!(>_<)!!!
およそ8か月待ち。別に急いで読む必要はないが,予約する気力はなくなった。
(その後,判明したこと。当人のリクエストが没になっても,誰かのリクエストが通っていれば,その本は自動的にリクエスト者の予約になるとのこと)

●2009年10月29日の「徒然帳」より
『1968』の本は気になりますが,とにかく値段が高いので,買ってから値段にふさわしくなかったと思うことのないように,まず図書館の本で概略を読んでみようというわけ。

1969年に大学に入った僕も多少の当時の雰囲気は知っていますが,若い研究者がその当時のことをどう捉えているか,またもう一つ,1969年の異常な入試状況はどこから出てきて,どういう結果をもたらしたのか(あるいは,何ももたらさなかったのか)(僕自身は何の影響も受けていませんが,周囲では何か起こっていたのか,いなかったのか),そのあたりの「歴史」的な点に興味が (^o^)

●2009年11月22日の「徒然帳」より
 今日,図書館からメールで連絡が来て,予約になっていた小熊英二『1968(上)』がやっと借りられるようになったとのこと。リクエストから2か月ほどなので,それほどは待たされなかったことになる。さっそく借りてきた。
 それにしても1096ページはすごい。続いて予約している人もいる状況なので,延長はできない。2週間で返却しなければならない。2週間で1096ページを読むには,電卓で計算してみると(^o^),毎日80ページほどになる。どこまで行けるか (^ ^;;

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■2■『1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景』
●第1章 時代的・世代的背景(上)

時代的背景としては,戦後民主主義教育と,受験競争の高まり,その間の矛盾。
……いろいろな高校新聞が資料に出てきた。僕もそんなことを書いていた,懐かしい。

「全共闘世代」ともいわれるが,「全共闘体験」があるのは,多く見積もっても同世代中の4~5%しかない。その中での関わり方も,多様。
……納得。職場で同世代のH くんがつくっていた旧ホームページは「全共闘世代がいく」というタイトルであったが,とても違和感があった。

「政治と文化の革命」は神話。
……同感。僕の周辺では,当時,ビートルズやフォークの話題よりも,ジャズの方が多かった。文学部だったせいかもしれないが,音楽の話をするやつはごく少なかった。以前,カズさんから「めいせいさんの世代はビートルズでしょう。来日したころだし」と言われたことがあったが,ピンと来なかった。カズさんの実家の近くに(当然,当時は知らなかったが),ジャズ喫茶があって,何度か行ったことがあるが,結局,学生のときは,小説や思想史などの本をよく読んだ(内容は忘れてしまっているので,つっこまないように(^ ^;;。音楽はFMラジオだった。

ビートルズが売れるようになったのは,1973年以降。それ以前の学生が先鋭的な音楽とみなしていたのは,ロックではなく,モダンジャズ。
……ロックよりジャズ,まったくそのとおりだと思う。

当時,LPレコードやギターは,学生にとっては高価で高嶺の花。ジャズでもラジオか,シングル盤。
……その通りだった。LPレコードは,ジャズ喫茶で聞くものだった。

●第2章 時代的・世代的背景(下)

ベビーブーム世代は,幼少期を発展途上国状態で過ごし,青年期には先進国に生きていたという状態であった。そして,国民皆受験,大衆消費社会,空虚な生など,現代社会の不幸を最初に体現した世代であった。大学はすっかり大衆化していたが,学生が求めていたのはアカデミズムといったすれ違い。そういう状況に対応する言葉を持っていなかった世代。近代と現代の狭間で,集団的なアイデンティティ・クライシスに見舞われた世代。数の多さは質の転換をもたらしたが,少年期の文化の影響。昔ながらの性道徳。全共闘運動は,アイデンティティの確立を求めての,言語なき反抗であった。

以上が,この章で書かれている内容。
ふむふむ,そういう風にも言えるのか。といった感じ。

●第3章「セクト(上)」…その源流から六十年安保闘争後の分裂まで。
この章は,ほぼ歴史的な解説。淡々と読む。

●第4章「セクト(下)」…活動家の心理と各派の「スタイル」。
ブント以来の諸派,無関心派,民青をふくめて当時の大学生のメンタリティを読み解こうとしていて,おもしろい。奥浩平の手記なども分析の対象。活動家の忙しい日常生活や,マルクス主義理解のレベル,反戦青年委員会と企業別組合の関係など。そんなこともあったのかという内容も多かった。

 この『1968』は,著者前書きにあるとおり学術書ですから,民青正しい,トロツキストダメとか,全共闘バンザイ,民青大バカというような,政治的なプロパガンダとは無縁です。従来,この手の本は,いずれかの立場から他の立場を批判し尽くすか,神格化するというものが多かったように思います。主題の立て方から,全共闘運動を検討する観点に重点をおきつつ,くまなくあちこちに目を配っているという感じです。

 反戦青年委員会についての記述で初めて知ったことは,次のとおり。

(以下,そのまま引用)
この反戦青年委員会の特徴は,従来の労組が企業別に編成され,それが産業別に束ねられていたのにたいし,職場・地域の反戦青年委に個人加盟ができ,さらにそれが団体・個人加盟併用の市町村地区反戦青年委に束ねられ,各都道府県の反戦青年委となって全国反戦青年委につながっていることだった。(以上)

ただ,社会党や総評の中心部との関係,従来の企業別組合との関係は冷たくて,組織や運動の実態は不透明なままのようだ。

●第Ⅱ部の第5章 慶大闘争
1965年1月,一方的な学費値上げ決定。初年度納付金が3倍に。大学経営の粗雑さ,強権的な姿勢がめだつ。
民青やセクト活動家の予想を裏切って自然発生的な大きな盛り上がり。
バリケード封鎖,直接民主主義,日吉コンミューン,自主カリキュラムなど,従来の学生運動にはない新しい動きが,その後の全共闘の萌芽となった。
石原慎太郎が慶大闘争に感激,賞賛,絶賛。しかし,石原は1966年には国家の理念へ,68年に自民党から参議院議員になる。
学生の運動とスト態勢は,2月,3月と衰え,進級,卒業,就職,入試などの現実的な日程の中で,収束した。ボス交とも言われた。大規模な闘争であったにもかかわらず,民青や諸セクトは,主導権を取れず,勢力を伸ばすこともできなかった。

6章早大闘争7章横浜国大闘争・中大闘争は,65~68年初頭の,いわゆる前史をなす部分なので,借用期間との関係で,パス。

●第Ⅲ部も,8章「激動の七か月」,9章日大闘争はパスして,10章東大闘争(上)と11章同(下)に読み進む。

第5章の慶大闘争は,20ページほどだが,10章東大闘争(上)と11章同(下)は,合計で300ページに及ぶ詳細な検討となっている。

東大闘争の特徴。かいつまんで。
(1)院生や助手が牽引役であった。
 教授や大学の自治への不信。
(2)自治会の大部分を民青が掌握していた。
 その結果,自治会とは関係がない全共闘が成立した。
(3)共産党や各セクトが,学外から大量の応援部隊を注ぎ込んだ。
 その結果,内ゲバが白昼公然と行われるようになった。
(4)「自己否定」という言葉が掲げられた。
 エリートによるエリートのためのスローガンが,学部学生にも波及した。
 やがて「大学解体」に至る。

特に,時系列で事実を追い,東大全共闘や民青の主張の変遷,メンタリティを検討している。1969年の安田講堂の事件は詳細。全共闘や各派と民青との内ゲバ,安田講堂前後の舞台裏,闘争の後,機動隊の暴力など,ひじょうに興味深い。内藤国夫の見方は随所に出てくる。著者からは,ジャーナリストとして評価されているようだ。林健太郎,丸山眞男,大内兵衛,大河内一男氏ら東大先生方の名前も出てくる。僕が浪人していた間に東大で起こっていたことの詳細が分かって,納得した部分と,そうでない部分がある。知っていたことがいかに少なかったかと言うことも,よく分かった。と,これ以上の感想は,またの機会に。

『1968(上)』は,もう図書館に返却する期限なので,とりあえずお終い。もう一度予約してパスした残りを読もう。また,時間をあけたうえで,再度読んでみたいところもある。

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■3■続き『1968〈下〉叛乱の終焉とその遺産』
 下巻も1000ページほど。

●第12章 高校闘争

この時期の高校生の運動で,大学とは異なる特徴は,二点あるとのこと。
(1) 高校生の間でも運動が起こったが,大学生よりはるかに厳しい状況下で行われた。警察の導入,退学処分など,容赦なく,いずれも短期間で鎮圧された。
(2) 当時の高校生の肉声が読み取れる資料が多く残っている。そういう中から,当時の若者が直面していた現代的な課題(大学生と共通)を読み取ることができる。

東京では,学校群制度ができて,それまでの公立名門高が多様な学力の子を受け入れるようになり(私学が人気を集めるようになり),矛盾を深めた公立高校で,高校闘争に火を付けた面があったようだ。

東京などでは,民青の高校生班,諸セクトなどがあったようだが,田舎の僕らは,そんなものはまるで知らなかった。京都,名古屋などの高校の諸運動,卒業式の混乱,学校新聞での主張がいくつか紹介,引用されているが,マスコミでは報じられなかったことで,僕は知らなかったことばかりだ。

しかし,無気力,無責任,無関心の三無主義 (「主義」というのもおかしいが),当然の如くの受験競争 (能力別クラス編成),旧態依然の服装規定,長髪禁止=丸坊主強制,などは,僕の高校でもまったく共通した状況であった。当時の抑圧された感情が思い出された。ただし,進学校でもなく,田舎の学校であった分,牧歌的な先生と生徒のふれあいもあった(当時の先生と,今もお付き合いがあるのは,そのなごりだろう。)。

僕自身は新聞部に入っていたので,多少は書いたし,学校からの干渉もあったが,他校との交流が禁止されていて,井の中のカワズ状態。愛新研 (愛知県高校新聞研究会?) などへの参加は許可されなかった。連絡の手紙などは,学校が握りつぶしていた可能性が高いと思っている。しかし,今も「愛新研」という言葉を覚えているわけだから,何らかの情報は入っていたのだろう。

全国的に見ると,高校生の反乱が強力に鎮圧された後,高校では,校内暴力,いじめ,不登校,自傷行為などが浮かびあがってくる。

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僕が滝学園(中高一貫)に行っていたころ(1962年4月~68年3月)(またはそれ以前の小学生のころ)は,父(滝の教員)は生活指導係として毎週,地元警察署に挨拶に行っていた記憶があります。「うちの生徒がお世話になっておりませんでしょうか」というわけです。そういう,そういう荒れた学校でしたから,最近のように大学進学で売っているようなことは,信じがたい気持ちがあります。経営的に成功したというわけです。ですから,地元の古い卒業生が自分の子供を滝に入れようとして,不合格になってしまったという“嘆き”をよく耳にします。昔は地元の子が誰でも入れましたから。今は,名古屋とか一宮,稲沢など遠くのできる子が多いみたいです。

最近の卒業生はそういう昔のことは知らないでしょうね。私立ですから教員の異動はないのですが,定年でやめていかれることで,今や,僕の知っている現役の先生は一人もいません。

先日,昔の恩師(父の同僚)の家に伺ったおり,「最近は何人かの先生がたいへんになっている」という話を聞きました。滝に限らないでしょうが,先生の世界もたいへん。

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滝学園とは。
初代,瀧(たき)兵右衛門(ひょうえもん)という人が,古知野(現愛知県江南市)で呉服織物卸商を開業。Webのよれば1751年のようですが,今は,タキヒョウ株式会社になっています。同族経営の長さは,益井商店をはるかにしのいでいます。

その後,何代目かの兵右衛門さんが出身地に「報恩感謝」の念をこめて瀧実業学校(今の滝学園)を開設。Webによれば1926年のようです。以来,学校の理事長は,歴代,タキヒョウの滝社長です。在校生は全員,年に一度,ぞろぞろ歩いて,学校の近くの滝家の墓にお参りにいったものです。今は知りませんが。

以下は父の話。朝鮮半島のりんご園でしこたま儲けたが,敗戦でりんご園はなくなり(当然ですが),繊維の家業もかたむき,学校も荒れて廃校寸前になった。戦後,低迷を続けていたが,ベビーブーム,進学熱の高まりをとらえた元校長(父は,キーボーさんと呼んでいた,丹羽喜代治氏)らの努力で,それまでの農業科と商業科のほかに,普通科をつくって拡大(中高一貫,“能力別”で鍛えていた),成功した。父の話では,昔は先生同士もあだ名で呼んでいたようで,校長はキーボーさん,先に書いた恩師は三ちゃん,などなど,貧しかったが故にアットホームな面もあった学校だったのに,今は…。

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受験競争。いやな言葉だ。
滝学園は,昔は荒れた学校でしたから,働いていた先生方は,自分の子女を自分の学校に入れていなかった。が,それでは,受験校として名をなしていくことはできない。そこで,先生の子女は,授業料をほとんど無料にして,受け入れることになった。敗戦後,満州から着の身着のまま帰ってきた父母は,学校の寄宿舎に居候していて,貧しかったので,それに応ずることになり,僕はその最初の事例で,公立高校に行くよりも安かったと聞いている。大学受験は,1968年の現役のときは,一つしか受験せずに不合格となったが,1969年の浪人での受験のときは,私立と国立一期校に合格後に,学校からもう一つ二期校も受けてくれないかという話があった。学校の成績,合格大学の数を増やしたかったのだと思う。とんでもない。僕が行くつもりのない大学に合格してしまったら,一つの席がなくなって,誰かが不合格になるかもしれない。お断りした。授業料がほとんどタダだった,交換条件みたいにみえる。恩返しを強要されたような,いやな話だ。

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●第13章 68年から69年へ--新宿事件,各地の全共闘,街頭闘争の連敗の時期

新宿事件や,街頭闘争については,たいへんなことが起こっていたのだなという感想のみ。機動隊(政府,権力)も,実にひどいことをするものだ。このあたりの実情は,初めて知った。

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 この本には,新宿事件のことがくわしく書いてあります。セクトの学生と,見物?=群衆とが一体になって(両者に心理的な共通性があって),機動隊を圧倒した(警察の屈辱)ので,その後,警察の規制が格段に強化されたとのこと。学生と見物人を徹底的に切り離すようになったとのこと。僕は田舎で浪人中,ほとんど記憶にありません。

 高校時代の親しい同級生が,広島大から新宿闘争に参加したと,後で聞きました。彼は,その後は社会運動から一切はなれて,名古屋空港の燃料補給会社の労働者になりました。彼が学生時代の1969年秋に会いましたが(僕が広大の寮に1週間ほどとまらせてもらった),その後は会う機会がなく今日に至っております。同い年だから,定年だろうな。

 広大の寮は,確か東雲寮といったが,セクト(中核派だったような)の拠点となっていた。どこの大学でも寮はそういう面があった。何せ同じ建物で寝泊りするのだから,オルグは簡単。ゲバルトの用具(武器)庫,出撃拠点でもあった。あの本では,自治会を握ると金銭的なメリットがあったと書いてあったが,寮の管理権でも金銭的なメリットもあったのかもしれないが,ここは不明確。

 その友人は新宿闘争から帰ってからも,セクトの活動はしていた。寮のすぐ裏に,修道高校(僕の出身の滝学園などとは格が違う私立の優秀な進学校)があって,そこの高校生諸君の高校闘争の拠点でもあった。

 ある日,高校生諸君が夜の間に学校を“封鎖”するということになり(たぶん試験粉砕とか),一宿一飯の恩義(本当は七宿〇飯くらいだが)を感じていた僕も手伝いに行った。
 ほとんど見ているだけだったとはいえ,
済みません,悪いことをしてしまいましたm(_ _)m 

 僕が寝泊まりさせてもらったのは,20畳ほどの大広間で,隅っこに積み上げてあった布団を勝手にしいて寝ていただけ。秋だった,まったく寒くなかったし,誰でも泊まれる感じだった。ご飯は外で,風呂は銭湯へ。川沿いの堤防で夜風に吹かれて気持ちが良かった。

 その後,広島には,一学の応援で何回か行ったが,それは時間の制約があり往復するだけであった。数年前に文英堂の英語辞書の営業出張で出かけたときは,原爆ドームを見に行った。高校生のときに修学旅行で行ったはずだが,まるで初めて見たような感じで,何の記憶も思いうかばなかった。それに比べると,修学旅行の数年後の広大の寮のことは,鮮明な記憶がある。そこを再訪する必要も感じないくらいだ。その寮が今もあるのか,どうか,それは分からないが。

 その友人は,大学は卒業せずに就職したかもしれない(そんな噂を聞いたような記憶が)(高校のときの同級生との付き合いも絶ったような感じであった)。これはまったくの予想だが,時間的な推移や,あの本に書いてあることから見ると,赤軍事件が彼の人生の転機だったかもしれない。現役で大学に入った彼は,1年遅れた僕よりもずっと激しい風を受けていたのだろう。

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以下は「各地の全共闘」に関連して,僕の感想。そうか,それで話がつながると思い至ったところがいくつかあった。

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(1) 諸セクトの街頭闘争は,70年の安保闘争を照準にしていたにせよ,理解できなかった。行き着く先が,連合赤軍の事件になるのだから,当然と言えば当然だろう。“革命”を夢想したのか,本気で信じていたのか,稚拙さにはついていけない感じで,この点は大学生当時の僕の判断が間違っていなかったことを確認させるものだ。だいたい,生活者の視点がまるでないのだから,大学を砦にして,街頭闘争を展開して,争乱状況へ,などと言われても,あっそうですかとは,いかない。僕は,無風の田舎から大学に入ったわけだから,諸セクト,民青のビラは,一生懸命に読んだものだ。民青のビラには,面白いものは,まるでなかった。68年以来の東京の対立からだろうが,決まり切った定型の文句,“トロツキスト暴力学生”よばわりで相手を非難するものばかりであったから。諸セクトの方も“日共スターリニスト”ばかりで,革命論は空論に近いと思われた。

(2) 各地の全共闘では,東大全共闘の倫理的,内面的な自己否定,大学解体などをうけついだが,どうやら形だけの面が大きかったようだ。京大の時計台闘争は安田講堂の亜流であったが,中にいたのは,セクト6人だけだったというのは,この本で初めて知ったことだが,あまりにも寂しい結末としか言いようがない。学内には,一定のノンセクト全共闘もいたのだが,諸セクトの勢いは,上巻で見た東大の場合に比べてかなり強力であったし,学内討論などもそれほど行われたという感じはなかった。僕自身の経験で言うと,積極的に活動している級友(教養部の語学クラス)にいろいろ聞いていくと,返答に窮したのか,最後に「お前,頭悪いなぁ,そんなことが分からんのか」などと言われたこともあった。心外だった。まともに答えろよと思った。ほぼ討論抜きの状況になっていたとも言える。

(3) 1969年には,地方では,大学でのいろいろな動きはすでに下降線をたどっていたようだ。山本義隆著『知性の叛乱』などを読んだりして,東大全共闘の主張には理解できるところもあったが,僕自身のまわりでは,そこに書いてあるような雰囲気というか,状況というか,そういうものを見つけることはできなかった。が,それでも全共闘の周辺でうろうろしていた。

一度,街頭デモに出かけた。当時既にノンセクトの隊列はできず,デモと言えばどこかのセクトに入れてもらうしかなかったように思う。機動隊はめちゃくちゃだし,デモも無意味だったので,二度と行かなかった。

救対(全共闘の救援対策)をたのまれて,上鳥羽(その後,文英堂に就職したら,その最寄り駅だった)の京都拘置所に接見に行ったことがある。指定された学生と面会して,希望とか聞いてきた。サンデーだったか,マガジンだったか,差し入れてくれと言われて,それは救対に報告した。しかし,みじめったらしくマンガとは何か,逮捕されたら,マルクスでも読めよ,日本共産党の宮本顕治を見習えよ,と本気で思ったものだから,二度と手伝わなかった。

(4) 大学は,入学直後からバリケードで封鎖され授業はなく,時計台闘争が終わって,10月からやっと授業が始まった。が,僕自身は10月から12月いっぱいまで,文学と歴史(現代史,思想史など)の読書に沈み込んだ。それらの本の内容は,もうすっかり忘れてしまったが,本だけは今も本棚を占めている。本の裏にバーコードのない本は,ブックオフでも買い取ってくれないから,もう捨てる機会をまっているだけだ。

(5) 69年の年末に帰省して父母の顔を見て,家の経済状況と僕自身の独立のために,授業に出ることにしたが,1回生の分の単位はほとんど取れなかった。2回生の時に1回生の分の単位を取り,3回生の時に,2,3の2年分の単位を取得してやっと遅れを取り戻した(なぜ,この年のこれだけの馬力が出たのか。それは,今の……)。それで,4年で卒業できることになった\(^o^)/ 級友(教養部の語学クラス)はほとんど留年で,4年で卒業したのは,ごくわずかだったと思う。

かくして,この第13章は,僕の大学生活を改めて概括,総括させる契機となったわけだ。

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●第14章 1970年のパラダイム転換

パラダイムとは,時代の思考を決める大きな枠組みといった意味。
1970年前後には,一般に
(1)「戦後民主主義」の肯定から批判へ
(2)「近代合理主義」の肯定から批判へ
(3)「被害者意識」から「加害者意識」へ
という,三つのパラダイム転換が起こったとされるが,一つ一つは検討を要する,というのが著者の主張のようだ。「事態はそれほど単純ではなかった」というわけだ。

1968年の後半,東大全共闘は民青との激しい対立によって,リゴリズム(倫理主義)傾向を強め,民主主義の欺瞞を強く批判するようになっていた。大学では,民主主義を無条件に信奉することができるかどうか,その判断が求められる状況であった。

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僕が1973年4月に就職した文英堂という職場は,「益井商店」とよばれて,前近代的,非民主的な要素が多かった。労働基準法,労働組合法など,「戦後民主主義」の成果は,圧殺されそうであった。職場の労働組合は,必死で闘っていた。そういう状況で,近代合理主義,民主主義の価値をおとしめるようなことは,とうていできなかった。

当時,組合の幹部に聞いても,この職場の労働者代表は,誰だか分からなかったし,その選出もどうなっているのか,さっぱり分からなかった(組合の運動の及ばないところで,会社が勝手に決めていたという意味)。労働者代表の選出問題どころではなかったわけだ。しかし,その後,労働組合は,三六協定などの労働者代表の選出を,民主的な選挙で行うように,改めさせることができた。が,京都本社では組合の代表が当選したことはなかった。組合員が少数であったこと,会社が作った恣意的な選挙区割り,組合以外の候補が非民主的に選出される仕組みなどのために,僕の在職中,ついに組合の候補を当選させることはできなかった。だが,会社は,組合候補が当選しないように,手をかえ,品をかえて,悪知恵をしぼっているだけのことだ。選挙になったら,ひょっとして勝てるかもしれないという期待は,幻想に終わったわけだが,だからといって,この選挙制度が,益井資本の職場支配をカモフラージュするものだとか,民主的な選挙に意味がない,労働者の闘いを矮小化させるものだ,などとは,とうてい考えられない。

何回も労働者代表の選挙をして,どうしても勝てない場合,次にどうするのか。いつまでも選挙にしがみついているのでよいのか,どういう方針を立てるのか,そういう判断を急に迫られるようなこと(職場で労働者代表の選挙をするようにすすむ前には,そういう事態も心配したのは,学生時代の悪しき経験のなせるわざか),それだけは勘弁してもらいたいと思っていたが。

僕の覚えている1960~70年のころは,田舎の市会議員などの選挙は,地域のボスが村を代表して出るわけで,民主主義や投票の自由などは,どこにもなかった。予定通りに,各村から代表が当選していた。僕の家は,戦後,その村に移り住んできた余所者で,両親とも社会党支持であったから,選挙のたびの炊き出しとか,お手伝いなどにはかり出されなかったようだが,二人ともよく憤慨していた。選挙もお宮(神社)の掃除も一緒で,すべて村落共同体の共同作業であった。

というわけで僕は,民主主義は大事にしたいと思っている。不合理,理不尽な事態には,耐え難い思いになるので,近代的な合理主義もすべて否定したくない。ロマン的な,情念的なものにもやや惹かれるが,その対象としては限定的だ(それは何か,ここでは略)。

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●第14章 1970年のパラダイム転換……つづき。

著者の主張としては,
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66年頃のベ平連周辺での「戦後民主主義」の検討が「戦後民主主義」の批判的再生をめざしていたのにくらべ,69年以降の全共闘系の「戦後民主主義」批判が一方的な全否定に単純化されていた…
……
ここまでくると,日本のマジョリティは敵対者か批判対象でしかなくなってしまった。いわば,七〇年のパラダイム転換は,それまで「戦後民主主義」が見落としてきたマイノリティや戦争責任の問題を提起したというプラスの面もあったが,日本のマジョリティに訴える言葉を失ったというマイナスの側面を帯びたものであったといえる。
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きわめて妥当だと思う。そして,70年以降は武装闘争論が台頭し,それが連合赤軍に行き着いていく。
ここで,僕としては,初めて知ったことがあった。

武装闘争路線を批判的に見ていたのは,(1)元日大全共闘議長の秋田明大らベテラン活動家のほかに,別の角度から,(2)50年代前半の共産党の武装闘争期の党員たちであった,とのこと。後者は,本文中に資料も掲載されていて,長くて引用はできないが,ひじょうに興味深い内容である。著者は,共産党の武装闘争期の総括が十分になされず,教訓が若い世代に受け継がれていなかったために,この時期の武装闘争論の高まりがあったと,評価している。

武装闘争論とともに,党派間の内ゲバも拡大し,醜悪化している。多くの学生が運動から離れた。そして,72年に連合赤軍事件が起こり,若者たちの叛乱は一気に瓦解していった。

●第15章 ベ平連
社会運動として先駆的で学ぶべき点もじつに多い。今回は,この章は,パス。

●第16章 連合赤軍
結論部分だけを読む。著者は,「連合赤軍事件は,理想をめざす社会運動が陥る隘路である,などという問題とは,無関係である」,そして,「あつものに懲りてなますを吹くような状態になっている」と断言する。こうした捉え方が,社会運動発展の障害となってきた。今は,もう,感傷的に過大な意味づけをすることなく,現実を直視し,そこから抜け出すべき時期に来ている,としている。

●第17章 リブと「私」
 リブとフェミニズムとの関係はほとんどふれられていない。リブの運動の中で全共闘などの運動との関連する背景を分析するのがメインとなっている。女性史について必要な知識は別途,探した方がよい。田中美津,上野千鶴子らの一側面については,理解が深まる。

 それにしても,女の負った時代的な制約は深い。当時,国家公務員上級試験に受かっても,掃除婦以外には採用がない状況は悲しい。四大卒の女性には,そもそも求人がない。賃金の安い,高卒,短大卒が求められていた。男女雇用機会均等などとは無縁の世界が普通だったのは,改めて怒りがこみ上げる。だいたい,国立大でも文学部の男などは求人がなくて普通だった。まして女には。男女平等,男女同権のスローガンが泣いていた。

●結論
 「あの時代」の叛乱とは何だったのか。これは,僕自身にとってもずっと課題であった。これにきちんと応えてくれるような言説には,これまで40年間,出あっていないので,この本は貴重だと思った。

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 読み飛ばした章も半分くらいはあったが,結論部分を読んで,理解できなかった点は皆無。この本を読んできたお陰で,自分の大学時代を冷静に振り返ることができるようになったと思う。僕自身,大学生当時は,自分探しに苦しんでいたと思う。最初は全共闘運動にひかれたが,その後は文学や歴史の面からアイデンティティを求めるようになった。この本の中でよく引用されている桃山学院大の教授,真継伸彦さんは,文学者であり,その本はよく読んだものだ。高橋和巳さんの本も,とくに『わが心は石にあらず』『邪宗門』など,耽読した。ロシア,現代中国の小説もあった。ということで,大学を卒業するときには,結婚する相手は決まっていたが,そのために必須の就職活動は,かなり苦労した。運良く文英堂で働くようになって,思想的には,事態はきわめて単純であって…家父長的な益井商店の中で,課題は,ひたすら近代化と民主化であったから。その点では恵まれていたというべきか。

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 以下は,『1968』の著者の主張。
一言でいうと,あの叛乱は高度経済成長に対する集団的な摩擦反応。

その要因として四点,あげられている。

(1)大学生の急増と,大衆化。進学率は高くはなかったが,ベビーブーム世代はとにかく数が多かった。大学を出たといっても,エリートの道が用意されるようなことはなくなった。

(2)高度成長による社会の激変。急に豊かになった生活文化の激変に,この世代の価値観がついていけなかった。幼少時の貧しい記憶,恵まれて大学生になった負い目,あるべき社会像やあるべき大学像の崩壊。

(3)戦後の民主教育の下地。民主教育をうけて育ちながら,中学,高校と世代全体が受験競争の中に巻き込まれていた。

(4)当時の若者のアイデンティティ・クライシスと,「現代的不幸」からの脱却願望。生存感の確認を求めて,全共闘運動に参加。政治の言葉,マルクス主義の言葉を借りた表現は,言語化しにくい状況をしいて表現する手段であった。セクトは,若者の不安をマルクス主義の理論におしこめて利用した。

政治運動として評価してみると,理論的な貧しさがめだつ。若者の自己確認運動,表現運動という側面が強かったので,市民や労働者には広がらなくて,当然。政治運動としてとらえるのは,適切ではない。「自我の世代」の自己確認運動。年長者,現実の労働者や,貧困などで進学できなかった同世代の者は,具体的に捉えられておらず,民衆への献身などとは無縁な「自己否定」「自分さがし」の傾向が強かった。

「あの時代」の叛乱で明確に批判されるべき点。

(1)あまりに無知で性急に「戦後民主主義」を一面的に非難しすぎた。
(2)運動後の去就。卒業後は,多くが企業の中で「戦士」になっていった。運動の場にとどまる歩留まりはかなり悪かった。
(3)運動のモラル。民間の自動車でもバリケードに利用。内ゲバ。
(4)運動内の責任意識が希薄。指導部が無責任。

そして,検討課題として,

・国際的な若者の運動との比較
・高度成長に適合した運動形態
・大衆消費社会への「二段階転向」
・1970年パラダイムの限界…赤木智弘の「『丸山真男』をひっぱたきたい」との関連。日本のマジョリティに語りかける言葉を失った結果,そのツケが現れてきている。

などが細かく検討されている。

最後の方で,彼らの「失敗」から学ぶもの,が書かれている。
「彼らはトライすることはした」わけで,1970年パラダイムが力を失いつつある今,あの時代を検証する現代的な意義がある。

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●2009年12月20日
 2週間の借用期限が来たので,本は図書館に返す。
●12月21日,『1968(上)』を図書館に再度,予約した。
 本の数は4冊に倍増していたが,35人が予約待ちになっていた。18週間待ち。
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