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2009年11月21日 (土)

定年退職にあたって,来し方行く末 ■Ⅰ

■Ⅰ■ 職場での組合活動

(1) 1973年に文英堂に入社したときはすでに労働組合があった。
  諸先輩に感謝

①入社して労働組合に加入

・1973年4月に入社,23歳。すぐに組合に加入。
この年の秋に社前ビラまきで“公然化”。

・当時は,京印労連(現在の全印総連京都地連)の
京都印刷出版産業労働組合文英堂分会
1966年に結成された分会で,個人加盟組合であったが,
実質的には合同労組的な組織であった。

・入社して半年位してから,その年の新入社員6人が,社長(現会長)の家に招待された。僕が今まで行ったことのある家の中で,いちばん豪華だった。庭も美しかった。トイレの便器まで,初めて見る形だった。さすがお金持ちの家はちがうなと思った。そのとき,労働組合員が社長の家に落書きをしたという写真を見せられた。

・帰りに社長の奥さんから,夕食として,折り箱に入ったお弁当をもらってアパートに帰った。何だか,無性に腹が立って,アパートの入り口においてあった大型ゴミポリバケツにその弁当をまるごとポイッと捨てた。

・そのアパートには,僕の帰りを待って食事の用意をしてくれている人がいました。まだ結婚してなかったのですが,今の女房です。

②結婚して長男が誕生

・1974年春に結婚。1975年秋か冬,当時の編集部長が突然,自宅に訪ねてきた。
組合脱退工作。
僕が大学の後輩にあたり,結婚式に出てもらったりしたのが災いしたか。

・1976年,会社が,四条大宮から上鳥羽の現在の地に移転。
組合は組合事務所の設置を要求したが,新社屋でもかなわなかった。
会議室が空いていても,団交も“予備室”でしか行わないような経営だから。
組合事務所は,結局,最後まで文英堂の中ではできなかった。
その後,啓林館労組の事務所に行ったが,充実していてひじょうに羨ましく思った。

・1979年,長男が誕生。京都で出産。
実家には帰らなかったが,それぞれ手伝いに来てもらった。

・1980年,父が60歳で死去。今や僕もその年齢になった。

(2) 1979~93年は職能給反対闘争

①職能給反対闘争と組織問題

・1979年,会社が「賃金体系検討委員会」を提案。
その後,職能給をめぐる労使の対立が激化。

・1981年9月,会社が職能給の成案を組合に提起。

・そのころ,組合の書記長をしていて,団交当日に要求書,回答書などの書類一式を家から会社に持ってくるのを忘れたことがあって,慌てました。家に電話して,女房が長男の手を引いて(だから2~3歳? 1981~82年ころのことかな)会社まで届けてくれたことがありました。

・職能給をめぐる労使の対立が激しくなって,元の書記長が組合を脱退することになり,これまでの協定書など組合の書類一式や印を引き継いだ。その頃,何人かの組合員が脱退したが,黙って去る人もいれば,後足で砂をかけてやめていった人もいた。人柄ですね。

・1981年10月,京都印刷出版産業労働組合を脱退。京都文英堂労働組合を結成,出版労連に加盟。

・ただし,脱退をめぐり,京都印刷出版産業労働組合からは,除名処分をうけた(4名)。

・1982年,出版労連加盟の東京支社の文英堂労働組合に合流して組織統一。
出版労連の教材共闘に参加。
その支援の下,職能給導入に徹底的に反対する方向へ。

②会社の強行実施と法廷闘争

・1985年春闘で,会社は職能給を回答。86春闘も解決せず。
1987年,組合員にも強行実施。

・1985年,会社に対する総合的な要求,提案として,職場政策要求を出す。
会社はすべて拒否。

・1985~86年の2期,出版労連の中央執行委員,京都地協議長を担当。
(単組の副委員長兼任)。

・このころは,“ひょっとして解雇争議に発展するか?”という懸念をいだかせるような,乱暴な労務政策が行われた。

・1985~93年には,会社の違法行為に対して,
労働組合としていくつかの法廷闘争も闘う。
弁護士は,大阪地協の紹介により,京都第一法律事務所に依頼。

・京都地方労働委員会(地労委)で,会社側証人が,組合に入っていない人のことを「普通の人」と言ったことは,忘れられません。聞いてすぐに「組合員は普通の人でないのか!組合員は特別な人なのか!」と強く抗議。明確な差別発言であり,差別される痛みを実感しました。

③パソコン

・1986年,法廷闘争の文書作成のため,NEC9801一太郎Ver3プリンタ一式を50万円ほどで購入。

・ワープロ専用機か迷ったが,職場にすでにPCを持っていた組合員がいて,
PCに決めた。

・以後,PC大好きになる。大阪日本橋へ行ったり(最初のPCも日本橋で買った),
東京での組合の会議のついでには秋葉原のジャンクショップへよるのが楽しみになる。

・現在,MACも mini(iTunesでのmusic管理),cube のほか,oldmac が数台,
動くはず。

・1986年,二人目,長女が誕生。今回も京都で出産。争議激化,50万円の投資など,忘れられない年だ。長女の誕生直後,何かの催しの抽選で長男が特等のビデオテープレコーダを当て,たまげた。

NIFTYのパソコン通信にはまる(1988年~)。
・その頃は,2400 bpbのモデム。画面にテキストがゆっくり流れ,それが読める。
現在の光ファイバーが実質的に40Mbpsとすると,昔の16万倍にスピードアップしている。今1秒ですむデータが,当時は16万秒かかっていたわけで,16万秒は約44時間=2日弱。

・Windows95のころからインターネットに。
Windowsは,3.1,95,98,ME,NT,2000,XPと使ったが,Vistaはパス。

・地労委闘争の最初は,申立書は手書き。弁護士さんに指摘された修正は,切り貼りで処理してたいへんだった。府立南労働セツルメントの会議室で,悪戦苦闘した覚えがある。しかし,パソコンとワープロを使うようになって,格段に合理化された。また,ビラをつくるのも相当に便利,快適になった。自分でプリントアウトできることが,素晴らしいと思って感激した。

・1990~91年ごろ,編集部にようやくNEC9801が導入され,会社でも遊べるようになる。そのころはMS-DOSの時代だったので,編集PCにもバッチファイルによるメニューを作成。

・1999年,一太郎検定2級に合格。一太郎の操作,タイピングのスピードなどの試験でした。一太郎はワードの押されて,往年の地位を失ってしまったので,この資格も社会的な意味がなくなってきたような。

・2006年,一時金のプラス査定分で横断幕用大型プリンタを購入。A2の紙に印刷可能。新品なら20万円を超えるが,オークションの中古で,数万円。現在,組合事務所にある。プラス査定は,査定の強行実施以来,過去20年で初めて。

④中央図書労組とともに闘う

・1988年,出版労連の定期大会が京都で開催された。
大会の京都開催は異例。京都で闘う中央図書労組,文英堂労組への支援が目的であった。大会代議員団が昼休みにバスで移動,社前(一日目,二日目と両社)で集会を開いた。

・この前後,中央図書労組支援対策会議や,パンフづくりなどに協力。

⑤車の運転免許を取得

・1989年,39歳のときに車の運転免許を取得。

動機(1)…当時,会員であった有機農業の会の農場が,三重県と奈良県の県境辺りと,かなり遠かったので,車で行けるようにしたかったこと。
動機(2)…法廷闘争のため,弁護士事務所に運ぶ文書が重くて仕方がなかったこと。

・免許を取り,すぐに新車を買い,車通勤を始めた。会社の近くに駐車場を借り,弁護士との打ち合わせの日は,法廷関係の文書を車に積んで出勤した。楽になった。

・1991年,三人目,次男が誕生。生まれそうになった朝は,車で産院へ。

⑥ビラの作成--僕の場合

・組合の朝ビラは,当初はガリ版刷りであった。ガリ版は,高校生のとき(新聞部)から使ったことはあるが,これできれいなビラをつくるのは,なかなか技能のいるものであった。

・パソコンを買ってからは,プリンタ→コピーと進化した。すごくきれいなプリントができるようになって,ひじょうに感激した。しかし,今のようにコンビニの10円コピーが普及していなかったので,休日にバスと電車で10円コピーの店に出かけていたことがある(醍醐→中書島)。

・車を買ってからは,休日に10円コピーの店に行き,できたビラを会社のガレージに置いてくる(月曜に担当の組合員が配布する)ということも容易にできるようになった。子供らも乗せていって,会社の近くの上鳥羽公園でよく遊んできた。十条猪熊通りを少し北にいったところにある公園は,ラクダの形の置物があって,子供らはラクダ公園という名前で呼んでいた。休日の午後の子守りですね。子供らが大きくなって,いつの間にか,しなくなりましたが。

(3) 1985~93年の職能給反対に関連する法廷闘争

・職能給の実施をめぐって会社がおこした団交拒否,就労拒否に対する法廷闘争で,組合側が圧倒的に勝利したことで,組合は,現在まで職能給の実施を認めず,辞令の返却,自己評価と自己申告を拒否している。

①組合旗・立て看板設置禁止仮処分申請

・1985年,会社が京都地裁に申請。組合の組合旗や立て看板設置を,攻撃。
会社の申し立ては,3か月で棄却された。

②団交拒否事件

・会社は,1986年秋から,団交ルールがないことを理由に,87年春闘にかけ団交を拒否。その間に職能給を強行実施した。京都地労委,中労委,東京地裁,東京高裁,最高裁と5審すべてで組合が勝訴。
1992年11月,社内ににポストノーティス(謝罪文の掲示)。

③就労拒否事件=不当労働行為の救済

・1987年4月の15分間のストで全日の就労を拒否し,全日分賃金をカット=ロックアウト。

・組合京都支部は,不当労働行為の救済を求めた。京都地労委,京都地裁,大阪高裁と会社が敗訴。前月,最高裁で敗訴(団交拒否事件)した会社は,上告する気力もなくして,1992年12月に二つ目のポストノーティス(謝罪文の掲示)。

④就労拒否事件=賃金支払いの請求

・組合東京支部としては,賃金支払いの民事訴訟を行う。組合員全員がカットされた賃金の支払いを求め民事訴訟を起こした。東京地裁,東京高裁と勝訴。京都よりも訴訟の進行が早かった。

強制執行…高裁判決が出た1990年11月に京都本社で強制執行。弁護団と綿密な打ち合わせを経て,カットされた賃金分の現金は,京都地裁の執行官の手で会社から取りたてた。現金は,執行官から弁護士に,そして傍らで見ていた組合にわたされた。執行官は有無を言わせず現金を出させました。国家権力ですから,すごいですね。会社は最高裁に上告したが,敗訴。社長(現在は会長)は,二回のポストノーティスとともに相当の屈辱感を味わったはずです。

⑤昇進差別事件

・組合員に対する昇進差別事件(1985~93年)は,勝てなかった。

・京都地労委
 …組合は大量観察での立証(個別の事例には踏み込まず,全体的に見て差別があるという立証)を行ったが,申立は棄却された。組合は,それ以上,個別立証(一人一人について具体的に差別を立証すること)には踏み込まなかった。少人数の会社では,差別の立証は難しい。会社は,僕と同期に入社した英語の編集者と比較して,僕が1冊つくっている間に,彼は2冊つくっているから昇進しているのであって,1冊しかできない僕が昇進しないのは,差別ではないと主張した。つまり,会社は個別立証で反論してきた。

・東京都労委
 …審理が続いたまま,結論は出なかったが,退職していた元課長は,組合側証人として会社の差別意思を証言した。

⑥昇進差別事件のねらい

・昇進差別事件の申立は,形式上,組合員を課長や主事(係長クラスの職制)などに昇進させることを求めていた。しかし,組合としては,組合員各人の昇進は直接の目的ではなかった。このあたりは,当時,議論が不足していたし,そのため職場での宣伝も不十分だったと思う。

・組合の考えていた目的は,職能給を実施させないために,
いわば“新たな防波堤”を設定しようとするものであった。

・つまり「組合員差別がある職場で職能給が実施されれば,差別が賃金体系の中に固定され,組合員が以後ずっと差別を受けることになる。会社が職能給を実施するというのなら,まず,組合員差別を是正することが必要だ。」という展開方向にあって,職能給実施を阻止するために,会社に対して,必要不可欠で困難な前段階的手続きを行わせようとするものであった。

・そういう展開の第一歩として,地労委において「組合員差別がある」という点を明確にしたかったわけである。1985年に申し立てたのだが,会社は1987年には職能給を強行実施し,京都地労委からは1990年に組合側の申立を却下するという結論が出て,この地労委闘争にかけた組合側のねらいは,実現しなかった。東京支部(都労委)では,1993年まで継続し,取り下げた。

・文英堂では,労働組合員の昇進は組合脱退とセットであった。人により,まず脱退→次に主事や課長への昇進というコースもあれば,まず主事への昇進→次に「まだ考え方が変わらないのか」などという脱退勧奨のコースもあった。後者で,その後,降格になった組合員もいる。
       
(4) 1993年以降(職能給反対闘争後)の職場での闘い

①職場政策要求など

・1993年,法廷闘争がすべて終了したことで,二回目の職場政策要求を出す。
教育図書出版社にふさわしい職場と労使関係のための提案」。
会社はすべて拒否。

・1998年,文英堂労働組合の30年史「文英堂労働組合の30年 そして明日へ」を編集。
B5,96ページ。版下は,全ページを一太郎で作成。
現在,WebのPDFファイルで閲覧可。

・1999年から,投票による労働者代表の選挙を実施させるようにした。
ただし,京都本社では,同数で再投票まで行ったことが3回あるが,
組合代表が選挙で勝ったことはない。

・2000年,「職場からの10か条の要望」を提出。全社69人の意見を集約。
  1)経営のトップは,大きな方針を明示してほしい。
  2)会社の現状について,もっと情報を開示してほしい。
  3)長期的な組織構成・人材育成方針を策定し,説明してほしい。
  4)問題を分析し,責任の所在と対策をきちんと検討してほしい。
  5)組織の原則にしたがった業務運営を進めてほしい。
  6)従業員の声を聞き,下からの意見を尊重してほしい。
  7)出版点数をしぼり,品質第一の編集方針を確立してほしい。
  8)先生,生徒の需要に応じた提案ができる営業活動を重視してほしい。
  9)どうしたら本が売れるかという,本来の営業を進めてほしい。
  10)新しい技術の時代にそって,業務の見直しと改善を進めてほしい。

・2000年,三回目の職場政策要求21世紀の文英堂のために」を出す。
会社はすべて拒否。

②労働基準法違反の是正

・数々の労基法違反を指摘,労働基準監督署に申告したりして是正させる。
組合が指摘しても,会社はかたくなに是正を拒否してきた。

  時間外手当の不払い(2002年)
  違法な自己啓発手当など(2004年)
  昼休みの電話当番を管理職以外に拡大(2005年)
  年5日の子の看護休暇(2005~07年)

・組合員の頸肩腕(けいけんわん)障害 → 労基署の認定を受ける(2003~05年)。
・本社倉庫のアスベスト問題を追及 →倉庫は解体,撤去された(2005~06年)。

③継続雇用について

・2006年に会社から提案。
子会社(株)BSSの所属とし,そこから文英堂などに派遣の形態。

・1949年度組合員3名で,会社に質問状。継続雇用の賃金が,部長クラスは18万円,課長クラスは15万円,平社員なら12万円というのは,いずれも低額きわまりない。

・とくに,12万円というのは,納得できない。一時金の年2か月分(固定,標準査定)を加えても,年収は168万円で,時給981円の超低額(2010年の年間総労働時間1712.8時間で計算)。

・それで,労働時間はフルタイムの選択しかないというのでは問題外。

・全社説明会では強く異議をとなえるも,組合が関与しない労働者代表が,
会社と協定して実施されている。

④職場での最後の追及

・2007年春闘で
文英堂の本づくりについて」の要求。経営チェック,問題提起の要求。
 →会社「団交にはなじまない要求項目と考えますので,回答対象とは致しません」
 →社長室長より口頭で「業務のレベルでやってくれ。」とのこと。
 →その後,営業部,編集部で,部長への申し入れを行ったが,相手は形だけの対応。

・2009年春闘で
提起と質問-今後の文英堂のために。技能継承と経営戦略について-」の要求。
 →回答は,07年と同じ。
 →団交での追及はすすんだが,その場だけに終わった。
 →全文を,朝ビラとして配布した。
 →将来,経営者が実質的に交替した後には,何か参考になればと願う。

以下
定年退職にあたって,来し方行く末 ■Ⅱ
へ続く。

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